二尊寺の歴史
二尊寺の歴史
当山は正式名称 大司山檡在院二尊寺といい、開山は天正年間(西暦1573年~1592年)ご本尊は阿弥陀如来・釈迦如来の二尊。開山より浄土宗を宗旨とします。
天正年間に開基し現在は第22代の住職が継承しています
その昔、冷泉院天皇の時代より地元にご神縁のあった八幡社が、戦国の代を経て弥陀釈迦の二尊の木像の仏縁を賜り、そのご縁をたたえて二尊堂と称したことが号の由来となっております。その後、元になった八幡社にゆかりのある吉武氏の末孫にあたる僧が、そのご縁を案じて天正年間に開基し、現在の第22代まで続いています。
二尊寺縁起
昔、人皇63代冷泉院天皇の時代、安和年間(西暦968年)に西牟田の領地、大角の村に隠れていた二人の武士がありました。
兄は吉武外記、弟は吉武織部と言いました。外記に一人の女の子が二月八日生まれましたので薬師女と名付けました。この娘はとても綺麗で世にも稀な美人で、その上心の優しい利口な人でありました。
それで遠近の人々が是非私の嫁に欲しいと毎日毎日押しかけて来ます。然し何分にも一人娘だから他所にはやれぬと断り続けました。けれども余り人々に騒がれ煩いので15歳の時、乳母を附けて肥前の国、間辺という村に出しました。その土地の領主、吉門という人がその事を聞いて自分の家に迎え養うようにいたしました。
その年も暮れて翌年の春、百花咲き乱れた庭に遊んでいました所、忽然として空の彼方から容貌偉大な若者が飛んで来て、あれっという間もなく娘を引っ提げて飛び去って行きました。人々は大変に驚いて彼方此方と行方を捜しましたが見つかりません。そこで近くの村にある大きな池の中に沈められたのではなかろうかと、吉門も多くの家来を使って池の中を捜しましたが、遂に無駄でした。然し諦め切れずに池の周囲を監視されました。
ところが七十五日過ぎた時、彼の薬師女が左手に金幣を取り、右手に金の錫杖を持って池の真ん中に現れました。そして言うのは「夫れ八幡は鎮守国家の大伸なり 必ず領内に八幡を鎮守せしむべし」と。言い終わって城の中に飛んで行ってしまいました。
吉門も不思議であると感歎して社を建造して、肥前国、千里之八幡を勧請して綾部八幡と名付け、薬師女を神使となしました。そして吉門は薬師女は普通の人ではないとして任官させて貰うと京都に上り時の帝に御願いして勅許を以って従一位を下され名を宮子と改められました。
下向して後も宮子の言行には非常に奇特な事が多く有りました。或る時、宮子が「私はもと筑後大角の村に在り、彼處には広い平野がある。私は再び影をあちらに浮べ国家安全を護りましょう。その證端として、今宵一夜の間に三本の松を生やしましょう」と言います。吉門も止むを得ずこの旨を伝えようと思って使いを西牟田の領主の許に遣わしました。そして大角の野辺を探しますと不思議な事に三本の松が立ち出でて青葉豊年の荘が見えました。そこで感心してそこに神詞山門鐘楼を造らせました。綾部八幡を勧請して平松若宮八幡と名付けました。(この頃は新佛混合で一緒に祀ったものです)境内も広くなって数畝ばかり年を経るに従って世人の信仰厚く威益々輝いていきました。
後年、戦国時代となり大友軍敗れて敗残の兵隊達が諸国に散乱して諸々の宮、寺を破壊して歩き、終には此のお宮も焼いて、神具を盗み取ってしまって、その上鐘楼の釣鐘をも持ち去り、千歳川(筑後川の別名)の下流を船で乗り越えようとしました。丁度その時、大風吹いて波起こり終に船は難破して鐘は沈んでしまいました。その故を以って今の世にもそこを鐘ヶ江村と名付けてあります。この騒動の時、よく神使達は神体を守り奉り、隣郷蛭池の村に小さな社を造って往昔の名残を止めていました。
前記の吉武外記の末孫に大炊助という者があって、この神祠の故実を思って後年に大角の境にお宮を遷しました。初め吉武の系身(親族)に大司という人がありまして大角の境、蛭池の神祠を守っていました。或る時、年老の比丘が大司の家に来て一夜の宿を求め、翌朝帰る時、笈の中から弥陀釈迦の木像を出して大司に授けて言われるには、此れは弥陀釈迦の像です。この神社にはまだ本地がありません。善神は佛菩薩を以って本地といたします。今この木像を貴方に差上げますから必ず若宮八幡の本地としなさい。と言って立ち去りました。
大司は非常に喜んで小さな堂を造ってこの二尊の像を安置いたしました。そしてその堂を二尊堂と呼んでいたのであります。
代々年を重ね享禄年間(西暦1528年)大司の子孫に吉武杢之丞という者がありまして、一人の男子を出家させて修道せしめ、傳譽住意と名付けました。
この僧が前記の二尊堂の由来を案じて寺号を立て、天正年間開基し、大司山檡在院二尊寺と改められ現在に至り、現住職が第22代となります。
兄は吉武外記、弟は吉武織部と言いました。外記に一人の女の子が二月八日生まれましたので薬師女と名付けました。この娘はとても綺麗で世にも稀な美人で、その上心の優しい利口な人でありました。
それで遠近の人々が是非私の嫁に欲しいと毎日毎日押しかけて来ます。然し何分にも一人娘だから他所にはやれぬと断り続けました。けれども余り人々に騒がれ煩いので15歳の時、乳母を附けて肥前の国、間辺という村に出しました。その土地の領主、吉門という人がその事を聞いて自分の家に迎え養うようにいたしました。
その年も暮れて翌年の春、百花咲き乱れた庭に遊んでいました所、忽然として空の彼方から容貌偉大な若者が飛んで来て、あれっという間もなく娘を引っ提げて飛び去って行きました。人々は大変に驚いて彼方此方と行方を捜しましたが見つかりません。そこで近くの村にある大きな池の中に沈められたのではなかろうかと、吉門も多くの家来を使って池の中を捜しましたが、遂に無駄でした。然し諦め切れずに池の周囲を監視されました。
ところが七十五日過ぎた時、彼の薬師女が左手に金幣を取り、右手に金の錫杖を持って池の真ん中に現れました。そして言うのは「夫れ八幡は鎮守国家の大伸なり 必ず領内に八幡を鎮守せしむべし」と。言い終わって城の中に飛んで行ってしまいました。
吉門も不思議であると感歎して社を建造して、肥前国、千里之八幡を勧請して綾部八幡と名付け、薬師女を神使となしました。そして吉門は薬師女は普通の人ではないとして任官させて貰うと京都に上り時の帝に御願いして勅許を以って従一位を下され名を宮子と改められました。
下向して後も宮子の言行には非常に奇特な事が多く有りました。或る時、宮子が「私はもと筑後大角の村に在り、彼處には広い平野がある。私は再び影をあちらに浮べ国家安全を護りましょう。その證端として、今宵一夜の間に三本の松を生やしましょう」と言います。吉門も止むを得ずこの旨を伝えようと思って使いを西牟田の領主の許に遣わしました。そして大角の野辺を探しますと不思議な事に三本の松が立ち出でて青葉豊年の荘が見えました。そこで感心してそこに神詞山門鐘楼を造らせました。綾部八幡を勧請して平松若宮八幡と名付けました。(この頃は新佛混合で一緒に祀ったものです)境内も広くなって数畝ばかり年を経るに従って世人の信仰厚く威益々輝いていきました。
後年、戦国時代となり大友軍敗れて敗残の兵隊達が諸国に散乱して諸々の宮、寺を破壊して歩き、終には此のお宮も焼いて、神具を盗み取ってしまって、その上鐘楼の釣鐘をも持ち去り、千歳川(筑後川の別名)の下流を船で乗り越えようとしました。丁度その時、大風吹いて波起こり終に船は難破して鐘は沈んでしまいました。その故を以って今の世にもそこを鐘ヶ江村と名付けてあります。この騒動の時、よく神使達は神体を守り奉り、隣郷蛭池の村に小さな社を造って往昔の名残を止めていました。
前記の吉武外記の末孫に大炊助という者があって、この神祠の故実を思って後年に大角の境にお宮を遷しました。初め吉武の系身(親族)に大司という人がありまして大角の境、蛭池の神祠を守っていました。或る時、年老の比丘が大司の家に来て一夜の宿を求め、翌朝帰る時、笈の中から弥陀釈迦の木像を出して大司に授けて言われるには、此れは弥陀釈迦の像です。この神社にはまだ本地がありません。善神は佛菩薩を以って本地といたします。今この木像を貴方に差上げますから必ず若宮八幡の本地としなさい。と言って立ち去りました。
大司は非常に喜んで小さな堂を造ってこの二尊の像を安置いたしました。そしてその堂を二尊堂と呼んでいたのであります。
代々年を重ね享禄年間(西暦1528年)大司の子孫に吉武杢之丞という者がありまして、一人の男子を出家させて修道せしめ、傳譽住意と名付けました。
この僧が前記の二尊堂の由来を案じて寺号を立て、天正年間開基し、大司山檡在院二尊寺と改められ現在に至り、現住職が第22代となります。
二尊寺の寺紋